コロナが壊した「“そもそも限界”だった働き方」ウイルスと共生する未来 「不愉快な」現実、受け入れる時 ☆彡

今日の記事(msnNEWS)から;

長期化が予測されている新型コロナウイルスの感染について評論家で著述家の真鍋厚さんは、そもそも「生物としての人間」の限界を超えていた働き方をはじめ、無理のあった社会と向き合わざるを得なくなったと指摘します。未知の病原体は「24時間・週7日フルタイム」というシステムを壊し、「自分たちとは関係ない」と切り捨てていた他国の人、環境問題も無視することができなくなりました。ウイルスとの共生が前提の「withコロナ」の時代について、真鍋さんにつづってもらいました。

「不愉快な」現実を受け入れる
新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的流行)は、恐るべきことに今やわたしたちの日常風景の一部になりつつあります。

最近「アフターコロナ」「ポストコロナ」(コロナ後)という言葉で、この世界の変貌(へんぼう)ぶりと予測される未来像についての議論が始まっています。しかし、正確には国内外の多くの識者が指摘しているように、「withコロナ」(コロナとの共生)という言葉こそが真実に近いといえます。
今回のコロナ禍が長期化することが予想されているだけでなく、今後も繰り返し流行する可能性が高いといわれているからです。どうやらわたしたちは、好むと好まざるとにかかわらず、この未知のウイルスと付き合わざるを得ないようです。

そのような「不愉快な」現実をある種の諦めとともに受け入れるためには、わたしたちも地球上に存在するあまたの有機体の一つに過ぎない、という極めてマクロな生態系における人間の立場に気付く必要があります。

ヒマラヤ山脈の絶景という“副作用”
世界各国でロックダウンや経済活動の制限が進む中で、予期せぬ“副作用”がもたらされました。突然霧が晴れたように大気汚染が改善され、CO2(二酸化炭素)排出量が減少したのです。

自動車やトラック、バスなどが道路から姿を消し、工場も大規模商業施設もオフィスビルも稼働しなくなった結果、例えばインドでは200キロ離れたヒマラヤ山脈の絶景を拝めるほどになったといいます。
また、人がいなくなった都市で野生動物が闊歩(かっぽ)し始めました。イギリスでは100頭を超える野生ヤギが我が物顔で街中を周遊し、南アフリカではライオンの群れが路上を占拠して昼寝している様子が話題になりました。

大気汚染の死者は「10万人」
一方で、これまで積極的に取り組んでこなかった大気汚染の状況が、今回のコロナ禍に少なからず影を落としていることも分かりました。

米ハーバード大学の研究によると、PM2.5と呼ばれる微粒子状の大気汚染物質を長年吸い込んできた人は、新型コロナウイルス感染症による死亡率が大幅に高くなるというのです。
<「汚染された大気を吸ってきた人が新型コロナウイルス感染症にかかったら、ガソリンに火をつけるようなものです」と、論文の著者であるハーバード大学の生物統計学教授フランチェスカ・ドミニチ氏は言う。PM2.5は体の奥深くまで侵入して高血圧、心臓病、呼吸器障害、糖尿病を悪化させる。こうした既往症は新型コロナウイルス感染症を重症化させる。また、PM2.5は免疫系を弱体化させたり、肺や気道の炎症を引き起こしたりして、感染や重症化のリスクを高める。(コロナの死亡率、大気汚染で悪化と判明、研究/2020年4月11日/ナショナルジオグラフィック日本版サイト)>
このような健康上の被害の大きさが今回のパンデミックによって明らかになったのは皮肉な話です。そもそもわたしたちは大気汚染のリスクについて新興感染症ほどには深刻には考えて来なかったからです。
前出の記事でも、「大気汚染による米国の死者は毎年10万人を超える」ものの、「大気汚染の致死的な影響はほとんど議論されていない」と一蹴しています。
理由は明快です。誰もが現在の便利で快適な生活が続くことを望んでいるからです。しかし、それは「生物的な限界」を無視したグローバルな社会経済システムに支えられているのです。
簡潔にいえば、わたしたちは経済活動によって自身の生命活動を脅かす空気を吸い続けなければならないという人間の「生物としての側面」を完全に忘れていたわけです。

もともと無理な働き方だった社会
美術批評家のジョナサン・クレーリーは、そもそも無理な働き方を強いていたコロナ以前の社会について、「24時間・週7日フルタイム」で進行する「人間の身体性」を顧みない現代社会を「睡眠」という生理機能の抑圧という観点から暴きました。

「連続的な労働と消費のための24時間・週7日フルタイムの市場や地球規模のインフラストラクチャーは、すでにしばらく前から機能しているが、いまや人間主体は、いっそう徹底してそれらに適合するようにつくりかえられつつある」というのがクレーリーの現状認識です(『24/7:眠らない社会』岡田温司・石谷治寛訳、NTT出版)。
人間の「生物としての側面」を一切勘定に入れず、病んだり衰えたり死んだりしない「人工的な身体」、つまり「24時間・週7日フルタイム」に適合する身体こそがスタンダードになっているのです。
このような世界観から風邪の症状による発熱や、ストレス反応としてのうつなどを薬などを用いてコントロールして、生産性をできるだけフラットに保とうとする労働観も導かれます。
企業も個人も無意識のところでは、病原体などにペースを崩される「生物的な限界」を認めたくはないからです。それは、自分が事故や病気などで亡くなってしまう可死的な存在とは思えないというメンタリティ-とよく似ています。

開発原病としての感染症
仮にこの人間の「生物としての側面」を重視する方向へと転換していくのであれば、環境全体を視野に入れたマクロな生態系との関係を見直さなければならないでしょう。

霊長類学者のジェーン・グドールは最近、「われわれが自然を無視し、地球を共有すべき動物たちを軽視した結果、パンデミックが発生した。これは何年も前から予想されてきたことだ」と述べています。
<例えば、われわれが森を破壊すると、森にいるさまざまな種の動物が近接して生きていかざるを得なくなり、その結果、病気が動物から動物へと伝染する。そして、病気をうつされた動物が人間と密接に接触するようになり、人間に伝染する可能性が高まる。(コロナパンデミックの原因は「動物の軽視」 霊長類学者グドール氏/2020年4月12日/AFPBB News)>
大昔から感染症には、開発原病(開発が生態系を乱したことに起因する疾病)としての一面があります。
近年、そこに地球温暖化による気候変動も加わったことによって、新興感染症の発生が増加することが懸念されています。現在のパンデミックは恐らくその序章に過ぎないかもしれません。

奇跡だった移動の自由
とはいえ、わたしたちが依存してやまない、便利で快適だけれど「生物的な限界」を否定するシステムを、ひとまずスローダウン(減速)させたところで根本的な解決には程遠いのも事実です。

いつでもどこにでも自由に移動できること、いつでも好きなものを食べることができること、いつでも誰とでもコミュニケーションが図れること……ETC。このような日常が今や奇跡のように感じられるのは至極当然です。
かつて生きられていた世界とは、たとえ睡魔や疲労や不調があっても、薬による対処や体への無理を強いることで成り立たせることができた「ぜいたく品」だったからです。地球という生命圏の一部であり、かつ致死的な病原体の宿主にもなり得る、わたしたちの身の丈に合った新しい価値観、ライフスタイルの創出が不可欠なのです。

死を受容するユーモア
14世紀中盤、欧州の人口のおよそ3分の1を死に至らしめたペストは、ルネサンスの原動力となりました。コロナもわたしたちの生き方に再考を迫るだけでなく、災厄の克服に見合った世界像の構築を求めることは間違いありません。

キーワードとなるのは、死を受容するユーモアと、身体性を包含する共同性です。
ユーモアと一言で言ってもイタリアで賛否両論を呼んだコロナケーキのような表層的なものではありません。例えば、故人と楽しく笑い合うメキシコ最大の祭り「死者の日」など、生と死のサイクルを庶民レベルで積極的に肯定できる文化のことですが、場合によってはルネサンス的なものが現代に似つかわしい形で復興するかもしれません。

「関係ない」ではすまされない時代に
このような思考と関連して同様に重要なのが身体性です。

わたしたちは自分の身体を皮膚より内側と安易に認識しがちですが、皮膚より外側にある空気や水、食べ物を取り込まなければ生きることができません。これらの安全性が担保されるには膨大な環境リソースが必要となります。
身体は外部の環境とは無縁ではあり得ず、むしろ「身体の延長」とみなさなければなりません。それには言うまでもなく地球の裏側に住む人々や動植物までもが含まれています。
しかし、今回のパンデミックでは、他国の人々の身体を「自分たちとは関係ない」とする振る舞いが頻出し、まるでひとごとのようにスマホの画面をスクロールしていました。
コロナ禍において他者の身体を無視することは、かえって感染拡大を助長してしまい、回り回って自らに降りかかることにつながります。けれどもこの場合の他者は「人間」です。
それでは、グドールが指摘したすみかを追われたり、食べ物としての飼育であるブッシュミートにされたりする「動物たち」はどうでしょうか。彼らの身体もそうですが、彼らは尊重すべき他者と考えられているのでしょうか。他者を自己の「身体の延長」とみなすことが共同性の基盤となります。
「ウィズコロナ」は、いやが応でも生態系における人類の一挙手一投足が問われている転換点であり、わたしたちにとってはこれまでの世界に対する見方を変える重大局面になるでしょう。

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