特別原稿☆『日本の民衆は覚醒しつつある』 by 守田敏也

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福島原発事故と日本民衆の覚醒
                                 守田敏也
                                   
今、日本では民衆による大きな覚醒が起こりつつあります。脱原発を目指す民衆運動の大きな高揚が起こるとともに、政府や官僚、科学者たちを過信してきたことへの問い直しが、急速に広がっています。

福島事故以前、私たちの国のさまざまな民衆運動は停滞気味でした。第二次世界大戦以降、私たちの国の民衆運動は、社会主義的な政党、諸組織、労働組合などに牽引されてきましたが、1980年代後半からの東欧社会主義の崩壊やソ連邦の消滅の中で、左翼諸組織が後退し、民衆運動も停滞気味になってしまったのです。これに対して資本主義の側も、世界のどこでもそうだと思いますが、社会主義に譲歩したケインズ主義的政策を捨て去り、弱肉強食の新自由主義へと移行していきました。残念ながら日本の民衆運動は、この時の流れに十分に対抗できず、運動は小さくバラバラになってしまっていました。

政府批判勢力が全体として弱くなっている状況の中で、新自由主義のもとでの格差拡大が進み、私たちの社会の中にだんだんきしみが大きくなっていきました。これに対し、自民党を批判する民主党に民衆の支持が集まりだし、2009年に政権交代がなされました。
民衆運動そのものはまだまだ弱い中で、多くの人々が民主党のもとでの改革に期待しました。しかし選挙で掲げられた進歩的な公約は、さまざまな抵抗にあって、何一つ実現しませんでした。

しかしまだ民衆の中には政府に希望を持つ人々も多くいました。また官僚たちに対する信頼も捨ててはいませんでした。このため2011年3月11日に私たちの国を大震災・大津波と、福島第一原発事故が襲ったとき、民衆は政府を信頼しており、被災地では、混乱の中でも略奪など、起こすこともなく、人々は自ら助け合いながら、整然と政府の救援を待っていました。

しかしこのとき、日本政府は、民衆の信頼を手ひどく裏切りました。最も大きかったことは、膨大な放射能が飛び出してきているのに、適切な避難指示や放射線防護策が示されなかったことです。大新聞をはじめとしたマスコミも、科学者の大多数も、政府の無責任な姿勢に追従するばかりでした。

民衆は深いショックを受けました。多くの人々が自らの安全は自らの力で手にしなければならないのだということに気が付き始めました。とくに最も強くそのことを感じたのは、福島や東北・関東地域から被曝を恐れて自主的な避難を開始した人たちでした。
これらの人々は、政府が繰り返す安全宣言を信じず、大胆な行動に出ました。一時期はおそらく100万人をはるかに上回る人々が危険地帯を逃れて避難しました。今も数十万人が戻っていません。

この避難民が避難先の各地で非常に大きな役割を果たしだしました。福島原発から遠い多くの地域の人々は、大震災後、すぐに被災地への援助を始めました。同時に原発事故から逃れてきた人々を受け入れ、生活の援助などを始めました。地方自治体も、公的住宅を無償提供するなどしました。

地域の人々と避難者の交流も始まりましたが、その中で多くの人々が政府の姿勢に疑いを持ち始めました。科学者やマスコミへの信頼も大きく落ちはじめ、人々が各地で自主的な勉強会を組織し始めました。それまで少数派として孤立しながらも、反原発を掲げてきた科学者やジャーナリストに、民衆の関心が集中しだしました。

最も人々の注目を集めたのは、広島で被爆し、生涯に少なくとも6000人以上の被爆者を診てきた肥田舜太郎医師でした。肥田さんは全国に呼ばれて講演をして歩き、放射能の危険性を訴えました。また原発に反対してきたがゆえに、大学で教授になれず、助手として働いてきた小出裕章さんなどにも同じように講演依頼が殺到しました。
こうして民衆は、政府やマスコミ、これらに追従する大多数の科学者の言葉に耳を貸さなくなり始めました。放射線科学を自ら学び出し、学習会だけでなくインターネットなどで頻繁に情報を交換し合い、だんだんと専門家顔負けの知識を持つ市民が登場し始めました。

これと連動する形でさまざまな町で原発反対のデモが始まりだしました。デモには、小さくバラバラになった運動を担っている古くからの活動家たちも参加しましたが、それを圧倒する勢いで、2011年3月11日以降に、はじめて社会参加した人々が飛び込みだしました。

こうした新たな形の学習会や、デモの形成の大きな一翼を担ったのは女性たち、それも子育て世代の女性たちでした。理由は放射能汚染地から飛び出した人々の中の最も大きな部分が、子どもを抱えた女性たちや若い女性たちだったからです。その中に多くの母子避難者がいました。自主避難のため、生活を支えるために多くの男性たちは汚染地に残り、母と子どもでの避難が決行されたためでした。

子どもの命を守ろうとする若い母たちの姿に真っ先に共感したのも、同世代の女性たちでした。こうして各地に新たな女性たちの集う場ができました。これは日本の社会では画期的なことでした。なぜなら、とても恥ずかしい話ですが、私たちの国は女性の社会的地位が大変低い国で、女性が社会的行動をしにくい仕組みがあるからです。
例えば世界の民主主義国家の中でも最も女性の国会議員や社長が少ない。女性がリーダーになりにくい社会なのです。これは私たち日本の男性が、国際水準から見たときにとても劣った存在であることを意味していますが、そのため特に子育て世代の女性たちは、仕事もしにくいし、ましてや政治的な行動に出ることはもっと難しい状態にあったのです。

ところがその女性たちが中心になって汚染地を飛び出した。そしてそれを各地の女性たちが受け止めた。これが周りにいる男性たちの心も揺り動かし、各地でだんだんと力強い原発反対の運動が作り出されはじめたのです。これらの人々は、単に原発を動かすな、ゼロにせよというだけでなく、現に起きている福島原発事故への対処をきちんとせよ、何よりも放射能汚染地から人々を、とくに子どもたちを避難させよ、民衆に避難の権利を与えよという主張を掲げました。

こうしたことを象徴することがあります。例えば私はいっかいのジャーナリストですが、原発問題に詳しかったがゆえに、どんどん講演依頼が舞い込みました。福島原発事故からこれまでの講演数は280回を越えます。しかも平日の朝10時開始の講演をよく頼まれました。なぜかというと、小さい子どもを抱えた女性たちが一番、外に出やすい時間帯だからです。

講演に赴くと、女性たちは本当に目を輝かせて講演に聞き入ってくれました。ときには授乳しながら話を聞いて下さる女性もいました。しかも自主的な学習を重ねてきた彼女たちは高いレベルの質問をしてきました。このことで講師の側もずいぶん鍛えられました。まさに民衆が自らの力で科学を自分たちの手に取り戻し始めた瞬間でした。

またこうした女性たちの呼びかけで、旧来の政党や左翼組織が行ってきたデモとは雰囲気の違った、明るく晴れやかなデモがたくさん登場しました。これに音楽を愛する若者たち、資本主義のビジネススタイルに縛られない自由な生き方を模索している若者たち、農業の再興などを志しだしている人々などが合流し始めました。
これまでの古い活動家たちも、バラバラに分断されて、相互不信に陥っている場合が多かったのですが、新しい人々がたくさん間に入ってくる中で、対立感がほどけだし、もう一度、同じ運動を共有するようになりはじめました。

こうした運動の高まりの一つの象徴として、原発再稼働反対を求める首相官邸前行動が始まりました。少数の若者たちのグループがネットでよびかけた毎週金曜日の行動に、はじめは数百人が集まり、しだいに数千、数万と膨れて、最大では20万人が首相官邸を取り囲みました。大新聞が一行も報道しない中ででした。
さらにこの活動が全国に波及し、各地の電力会社本社・支社前で、毎週金曜日の行動が始まり、今では全国で約150か所にまで拡大しています。これほど持続的な毎週行動が全国規模で展開されたことは、日本の民衆運動史でも初めてのことです。

ところがこの大きな民衆の息吹がいまだ国政選挙に反映していません。なぜかというと、一つは日本の選挙制度が小選挙区制になっているため、与党や大政党に圧倒的に有利だからです。少ない票で多くの議席が取れてしまっています。
同時に、福島原発事故以降の、民衆の新たな覚醒を吸い上げて、政治的にまとめるだけの力を持った政党がまだ成長してないからでもあります。私には政党の方がまだまだ民衆の覚醒に追い抜かれてしまっているように思えます。

一番のポイントは、民衆運動の中には被曝防護の徹底化や、避難の促進を求めるムーブメントが強まっているのに、社会変革をのぞむ政党や諸組織側がそれを十分に取り上げることができていないことです。ある政党は、現場の人たちはしっかりと避難者と結合し、高い意識での放射線防護を唱え、各地の金曜行動でも大きな役割を担っていて、とくに女性組織が素晴らしい活躍をしているのに、残念ながら党の中央組織が現場の活動家の息吹に遅れていて、汚染地からの避難の促進など、放射線防護の徹底化に進んでいません。

このため選挙では、同じく「脱原発」を唱えても、将来のエネルギーの選択をどうするのかということだけに論点が偏り、今、進行している被曝をいかに軽減するのか、いかに避難を促進するのかなどの観点が、議論の遡上に上がっていないのです。選挙制度の歪みとともに、このことがまだ選挙に、民衆の意識の変化が議席数として反映していない結果を作り出しています。

しかし私はそうした限界はありながらも、まだまだ民衆の覚醒は進むと思っています。とくにそう感じるのは、大都市だけでなく、政治活動が非常に小さくなっていた地方の諸都市で、あらたな胎動が始まっているからです。私はむしろ私たちの国の大きな変革は、都市よりもこうした地方からこそ始まっていくのではないかという予感を持っています。

なぜかというと、地方の多くの都市が、この間の新自由主義的な発展と無縁であり、弱肉強食の生き方ではない、もっと暖かく豊かな人のつながりへの志向を示しているからです。そのような町の中にも原発事故の避難者がやってきて新たな輪が生まれ、熱が生じています。私は原発事故以降、各地を回って講演してきたので、そのことを肌で感じています。

2月にあった東京都知事選にも、こうした民衆の意識の高まりが反映しました。今、私たちの国の安倍首相は、民衆の覚醒に逆行する形で急速に右傾化を強め、原発も再稼働しようとしていますが、民衆の意志に反するこのあり方に、実は与党自民党内でも大きな動揺が始まっています。
これを代弁する形で飛び出してきたのが元首相の細川さんの原発ゼロを掲げての立候補でした。これを同じく元首相の小泉さんが応援しました。民衆運動の力が、元首相たちをも動かしたのです。

一方、民衆運動の中から出てきた候補は宇都宮さんでしたが、元首相という「セレブ」の登場で、脱原発票が二手に割れてしまいました。当日が豪雪で投票率が極端に低かったことと合わせて、東京都知事選は与党候補の勝利に終わりました。しかしそれでも民衆の反原発の主張が無視できないものであることが強く示されたと私は思っています。

私たちの国の民衆が進むべき道は、さらに民衆の力を強くすることです。民主主義の語源は、ギリシャ語のデモスクラチア、デモス=民衆に、クラチア=力のある状態です。民主党が政権をとったとき、民衆にそれほどの力はありませんでした。誰か良い人が政治家になれば世の中は変わるといった、どこか人任せな意識が、私たちの国の民衆の中にまだまだ色濃くありました。

今、私が各地で出会う人が、みな、同じような言葉を口にします。「これまで原発のことに心配はあったけれども、そういうことは政治家や科学者に任せておけばいいと思って何もしなかった。そうした自分の無責任さが今の結果を生み出した。そのことに目覚めた。子どもたちのため、未来世代のために今度は私が行動する」・・・。ここに私たちの国の民衆の覚醒の姿があります。

今回、私はヨーロッパのみなさんが、チェルノブイリ事故を通じて培った経験を学ぶためにここにやってきました。みなさんの英知を日本に持ち帰り、私たち日本の民衆の覚醒をますます進めたいと思っています。
同時に私は、福島原発事故の悲惨な現実や、事故がまったく終わっていないこと、いまだに大変な危険があることをみなさんに伝えるためにも来ました。
そのことで私が志しているのは、私たち世界の民衆が、さらに必要な知恵を獲得しあい、賢くなり、成長し、団結して力をつけていくことです。

Power to the people!

ともにこの宇宙船地球号を守るため、未来世代に少しでも美しい地球を渡していくため、手を取り合って進んでいきましょう!

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